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大島渚のお墓(1月15日が命日)

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大島渚のお墓(1月15日が命日)

大島渚のお墓(1月15日が命日)

2024/01/15

大島渚のお墓(1月15日が命日)

 

大島 渚(おおしま なぎさ、1932年(昭和7年)3月31日 - 
2013年(平成25年)1月15日)は、
日本の映画監督、脚本家、演出家、著述家です。
フィクションだけでなくドキュメンタリーも制作しました。

 

妹の大島瑛子は女優・プロデューサーで
大島プロダクションの代表を務めましたた。
美術監督の戸田重昌は瑛子の夫で義弟に当たります。
妻は女優の小山明子、長男の大島武は東京工芸大学芸術学部教授、
次男の大島新はドキュメンタリー作品監督です。

 

京都大学卒業後、1954年(昭和29年)に松竹に入社。
大船撮影所で大庭秀雄や野村芳太郎などの元で助監督を務めました。
1959年(昭和34年)、『愛と希望の街』で映画監督としてデビュー。
同作のタイトルは当初『鳩を売る少年』であったが、
松竹幹部から「題名が暗くて地味」だと指摘され、
妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という改題を提案しましたが、
公開時には本人の知らないうちに
『愛と希望の街』へと変更されていたそうです。いやーすげー時代です、、

 

翌1960年(昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、
篠田正浩や吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として
知られるようになりました。
しかし、自身はそのように呼ばれることを望まなかったそうです。

 

1960年(昭和35年)10月、日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた
『日本の夜と霧』を発表。

しかし、同作は公開から4日後、
松竹によって大島に無断で上映を打ち切られます。
大島はこれに猛抗議し、1961年(昭和36年)に同社を退社。
同年に大島と同時に松竹を退社した妻で女優の小山明子、
大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、
俳優の小松方正、戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立します。

 

その後、同社には俳優の渡辺文雄らが加わりました。
1960年(昭和35年)に小山明子と結婚。

1976年(昭和51年)、阿部定事件(1936年)を題材に
社会の底辺に住む男女の性愛を描いた
『愛のコリーダ』を発表。

同作は検閲を避けるため、若松孝二と

アナトール・ドーマンのプロデュースという日仏合作で製作され、
撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、
タイトルクレジットはフランス語で書かれていました。
第29回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、
ハードコア・ポルノとしての性描写が観客や批評家の間で話題となりました。

 

同作は国際的に評価され、シカゴ国際映画祭審査員特別賞や
英国映画協会サザーランド杯を受賞しましたが、
日本では映倫によって大幅な修正を受けました。
2000年のリバイバル上映の際には修正個所は大幅に減ったものの、
依然としてボカシ修正が入り、日本では21世紀に入っても、
映画館や国内DVDによる無修正完全版の視聴は不可能です。

 

また、1977年(昭和52年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した
書籍『愛のコリーダ』が出版された際には
わいせつ物頒布等の罪で起訴されました。
大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、
1982年、猥褻物とは認められず無罪となりました。
同年、東映のヤクザ映画大作
『日本の黒幕』の監督に抜擢されたが、脚本の最終段階で降板します。

 

その後は日本国外資本での映画製作が中心となり、
1978年(昭和53年)に再び日仏合作による『愛の亡霊』を発表。
性的描写は前作よりは抑制されたが、不倫した妻が愛人と共謀して
夫殺しに走るという前作と似たストーリーの作品を発表。
同作は第31回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。

 

1983年(昭和58年)にはビートたけしや坂本龍一、
デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった
国際的合作『戦場のメリークリスマス』を発表。
第36回カンヌ国際映画祭に出品された際には
パルム・ドール最有力候補と目されたが、無冠に終わりました。
同作で初めて映画音楽を担当した坂本龍一は
英国アカデミー賞作曲賞を受賞しました。

 

1986年(昭和61年)の『マックス、モン・アムール』では
人間とチンパンジーの愛を描きました。
同作は主演にシャーロット・ランプリング、脚本にジャン=クロード・カリエール、
撮影監督にラウール・クタールを起用し、全編フランスで撮影されました。

 

<朝まで生テレビのレギュラーに>
1980年代後半からは『朝まで生テレビ』の
レギュラーパネリストとなり、テレビ番組のコメンテーターとしても活動します。
大島は映画製作の資金捻出が目的ではなく、
テレビに出演するのが生き甲斐であると語っています。

 

事実、死去までの30年間は依頼を受けた2本の映画を監督したのみ
(それ以前には24年間で25本の映画を監督しており、
その大部分が依頼作品ではなく資金負担をともなう自主企画でした)であり、
病身もあって自己資金で映画を製作・監督するような活動は停止していました。
その他にも1980年(昭和54年)には
日本映画監督協会の理事長に就任し、1996年(平成8年)まで歴任します。

 

<『御法度』と闘病>
1996年(平成8年)1月下旬、10年ぶりの作品となる
『御法度』の製作を発表。
しかし、同年2月下旬に渡航先のロンドン・ヒースロー空港で脳出血に見舞われます。
その後、3年に及ぶリハビリを経て、1999年(平成11年)に
『御法度』を完成させます。
同作ではビートたけしと崔洋一という二人の映画監督が俳優として出演し、
大島は二人に撮影現場でのサポート役を託したと言われています。
同作は翌2000年(平成12年)の第53回カンヌ国際映画祭に出品され、
第42回ブルーリボン賞では作品賞・監督賞を受賞しました。

 

<お墓は鎌倉に>
2013年(平成25年)1月15日午後3時25分、
神奈川県藤沢市の病院で肺炎により死去。80歳没。
戒名は大喝無量居士(だいかつむりょうこじ)。
墓所は神奈川県鎌倉市の建長寺回春院。

訃報を受けて坂本龍一や岩井俊二、松尾貴史などが
自らのTwitterで大島への追悼の辞を発しました。

 

大島と同世代の映画監督であり、

同じく松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた篠田正浩は
「僕と大島は戦友だった」と哀惜の念を語り、
田原総一朗は「(大島さんは)頼れる兄貴みたいな存在だった」と語りました。
『戦場のメリークリスマス』に出演したビートたけしは大島との出会いを
「夢のようだった」と語りました。合掌=

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