榎本健一のお墓(1月7日が命日)
2024/01/07
榎本健一のお墓(1月7日が命日)
榎本 健一(えのもと けんいち、1904年10月11日 - 1970年1月7日)は、
日本の俳優、歌手、コメディアンです。
当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていきました。
「日本の喜劇王」とも呼ばれ、
第二次世界大戦期前後の日本で国民的喜劇俳優として活躍しました。
終戦後、笠置シヅ子がエノケンの相手役を務めましたが、
同コンビは有楽座の舞台を連日満員にし、映画でも
『エノケンのびっくりしゃっくり時代』『歌うエノケン捕物帖』
『エノケン・笠置のお染久松』などがヒット作に。
また、過去に「犬猿の仲」といわれた古川ロッパと
1947年4月東京有楽座『弥次喜多道中膝栗毛』で初共演。
直後の映画『新馬鹿時代』前編後編でも榎本のヤミ屋を演じて
古川の警官と共演し、ともに話題を呼びました。
舞台で孫悟空を演じた際に、如意棒を左足に落としたことが原因で脱疽を発病。
1952年(昭和27年)、再発したのは右足で、足の指を切断することになるエノケン。
その後は主に舞台に活躍の場を移し、
1954年(昭和29年)には古川ロッパ、柳家金語楼と「日本喜劇人協会」を結成。
自ら会長となり、喜劇人協会の公演などで軽演劇を演じ続けます。
1960年(昭和35年)には、56歳で紫綬褒章を受章しました。また、
同年に第5回テアトロン賞を受賞。
ところが1957年(昭和32年)にはまだ26歳だった長男の鍈一を失うとともに
1962年(昭和37年)には病魔が再発し右足を大腿部から切断。
そして失意から自殺未遂を繰り返すなど私生活では次々と不幸に見舞われます。
しかし、後妻の献身的な看護と、病床を訪ねた喜劇王ハロルド・ロイドの
「私も撮影中の事故で指を失いました。
ハリウッドには片足を無くして義足で頑張っている俳優がいます。
次に日本に来る時はあなたがまた舞台や映画で活躍している事を確信しています」
という励ましにより、エノケンは生きる気力を取り戻します。
その後、精巧な義足を得て、舞台・映画に復帰。
1966年(昭和41年)には芸術祭奨励賞受賞。
榎本はその後も、この義足にいろいろ仕掛けを施して、義足を使った芸も試しています。
怪我の悪化やテレビジョンの人気などにより、晩年は舞台活動も少なくなりましたが、
それと比例してテレビでの活躍が増えドラマ「おじいちゃま、ハイ」や歌番組出演、
「渡辺のジュースの素」「サンヨー・カラーテレビ」などの
コマーシャルソングで話題を集めました。
一方、映画演劇研究所を開設して後進の育成指導に勤めました。
面倒見もよく、1960年代大阪から上京した大村崑は、
「当時、関西喜劇人に対する蔑視が強い雰囲気の中、
榎本先生だけはとても温かく迎えてくださった」と述懐しています。
長年の飲酒癖で肝臓を患うなど体調を崩していたが、
1969年11月の中華民国巡業中に、エージェントに出演料を騙し取られ、
この時の精神的ダメージで体調がさらに悪化します。
そんな中で、同年12月に帝国劇場で公演された『浅草交響樂』の『最後の伝令』で、
台湾公演から帰国後、空港から駆け付け車椅子姿で演出を担当します。
自身、90度で倒れる演技指導をして起き上がれないまま涙を浮かべて
「『これくらいの気持ちで悲劇を演じなきゃこれは喜劇にならないんだよ…
大悲劇として演じなけりゃお客の目や耳にとどいても、
心にとどく悲劇にはなんねえよ。』と叫んだ」と出演した財津一郎は語っています。
「病院で年を越すのは嫌だ」と主張して病院に行くことを拒んでいましたが、
年が改まった1970年(昭和45年)の元旦に激しく体調を崩したため
周りの者の勧めもあり神田駿河台にある日大病院に緊急入院、
3日後の1月4日には昏睡状態に陥り、更に3日後の1月7日の午後2時50分頃に
肝硬変により死去した。65歳没。
最後の言葉は「ドラが鳴ってるよ、早くいかなきゃ」だったといいます。
<墓所は港区西麻布の長谷寺に>
港区西麻布2-21-34 (長谷寺)
死後、勲四等旭日小綬章を受章。戒名は天真院殿喜王如春大居士。
日本の喜劇王はここに眠ります。合掌=
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