北大路魯山人のお墓(12月21日が命日)
2023/12/21
北大路魯山人のお墓(12月21日が命日)
北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん)、
1883年〈明治16年〉3月23日 - 1959年〈昭和34年〉12月21日)は、
日本の芸術家。
本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。
晩年まで、篆刻家、画家、 陶芸家、書道家、漆芸家、料理家・美食家などの
様々な顔を持っていました。
<幼少期の環境が人格形成に影響>
魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げます。
生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々としました。
この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、
また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼしました。
6度の結婚(1908年〈明治41年〉、1917年〈大正6年〉、1927年〈昭和2年〉、
1938年〈昭和13年〉、1940年〈昭和15年〉、1948年〈昭和23年〉)は全て破綻、
娘を溺愛したものの、長じて魯山人の骨董を持ち出したことから激怒して勘当し、
最晩年にいたっても魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかったそうです。
その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、ラジオやテレビのの何気ない会話、
微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという。
美食家として名を馳せた魯山人は、
見た目の美しさを重視する傾向にあるフランス料理に対しても厳しく、
渡仏の際に訪れた鴨料理店で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、
自ら持参したわさび醤油で食べたといいます。
傲岸不遜、狷介、虚栄などの悪評が常につきまとった魯山人。
毒舌でも有名で、柳宗悦や梅原龍三郎、横山大観、小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、
世界的画家のピカソまでをも容赦なく罵倒しました。
この傲慢な態度と物言いが祟って1936年(昭和11年)に
魯山人ゆかりの料亭である星岡茶寮から追放されてしまいます。
逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王や吉田茂などから愛されました。
気難しい人物で、晩年魯山人の家で働いていた手伝い曰く
「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと
満足できない方だった。それが出来ずに叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」とのこと。
魯山人の一緒にいる人はさぞかし大変だったのでしょうね。
<お墓は京都に>
西方寺近くの市営・小谷墓地(京都府北区西賀茂)にあります。戒名は「妙法祥院高徳魯山居士」
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